2020年9月19日土曜日

令和2年 9月号

 最近犬や猫を飼っている人や興味を持っている人が増えてきたように思います。早朝のウオーキングでも犬の散歩がやたらと目につきますが猫を連れての散歩は見たことがありません。犬の散歩を見ただけでも世の中がペットブームになっているような気がしますが、NHKでも「岩合光昭の世界ネコ歩き」なんていう番組があって、世界中を回ってその土地の猫たちの表情や動きを捉え、目が離せなくなるほど可愛いく面白い人気番組になっているようです。

最近出版された村上春樹さんの「猫を捨てる」は村上さんの父親について書かれた本ですが、冒頭に出てくる猫を捨てる話はとても不思議な気がします。少年の頃家で飼っていた大きな雌猫をなぜだか知らないが父親と捨てに行くことになった。父親の自転車の後に乗って箱に入れた猫を抱え2キロ離れた海岸の防風林に置いて、あとも見ずに家に帰ってきたそうです。ところが玄関の戸を開けると捨てたはずの猫が「にゃあ」と言って尻尾を立てて愛想よく出迎えてくれて言葉も出ないほど驚いてしまった。村上さんにとって今でも謎のひとつになっているらしいのです。

今度は犬の話です。今年の直木賞を受賞した馳星周著「少年と犬」に登場する犬は東北の東日本大震災で飼い主とはぐれてしまったシェパードの雑種犬です。飼い主を探す過程でいろんな人との出会いがあって一時的その人たちに飼われたりもしますが、最終的には岩手県の釜石から5年の歳月をかけて熊本まで辿り着き探し求めていた少年と再会するという感動の物語ですが、その後の展開がまたすごい! ここでは紹介するのを控えますが、とにかく犬にしても猫にしても心の中の仕組みはどうなっているのか私には分かりません。




令和2年 8月号

 昔、少年だった頃観た映画は幾つになっても記憶に残っているものです。ターザンと言えばジョニー・ワイズミュラー、1930年代から1940年代にかけて製作された10本あまりの「ターザンシリーズ」をとにかく夢中になって観に行ったものです。可愛い小学生の時です。

最近懐かしさのあまり10本セットのDVDを購入して片っ端から見ていきました。幼い頃の憧れていた記憶が蘇ってきました。と同時に歳をとった自分の観る目との差がありすぎて戸惑ってしまいます。当時の映像技術にしては精一杯の作り方であったと思いますが、

例えばターザンを取り巻く動物たちは本物を訓練して使っています。ライオンなどの猛獣も本物を使ってうまくごまかしながら撮影しているのが今ではよく分かります。幼かった私はそんなこと分かる筈もないしジャングルの世界に入って充分に楽しむことができていました。ターザン崇拝の気持ちは今でも決して失われてはいません。

 先日2016年製作の「ターザン:REBORN」を観ました。最近の映像技術はどこまでが本物でどこまでがCG映像か見分けがつかない程で、ターザンが猛獣と取っ組み合いで戦ったり、ターザンに好意を持って擦り寄ってくる動物がいたり、何の違和感も感じさせないごく自然な形で観る人を楽しませてくれます。昔とは比較にならないほどリアルな画像です。もっともジュラシックパークに登場する恐竜たちも当たり前のように違和感なく存在しているのですが、このようなCGを駆使した映画はゲームのように楽しむことは出来てもその効果を考えると心からの感動を呼び起こすには至っていないように思われます。かつての名作と言われた映画にはそのような高度な技術的工夫が施されていなくても人の人生観をひっくり返すような、感動の涙なくしては見られない強烈な印象を与えてくれていたものです。

最近のミュージカルの舞台にしても派手なマッピング映像によって現実離れしたバーチャル世界を表出し、まるでテーマパークにいるような感覚で客を引き込んでいくようなものが多くなってきています。特に2、5次元ミュージカルと言われるような舞台では内容よりも視覚で若者を惹きつけるために観客は遊園地に行くようなつもりで集まってきます。

私たちと違うジャンルとして存在しているのを否定するわけではありませんが、照明や音響にしても度を越した舞台展開でこれでもかこれでもかと観客を煽り立てる手法には恐ろしささえ感じてしまいます。映画のCGにしても舞台のマッピング映像にしても有効に使えばそれなりの効果も出て観客の心を掴むことは出来ます。但しお金がかかります。しかしそのような最新技術に頼らなくても人々の感動をよぶ作品はいくらでもできると思います。私たちは舞台芸術という奥の深い器の中で私たちにしか出来ない独自の創作活動を続けていきたいと思っています。





令和2年 4月号

 劇団BDPという存在はなんだろうということを時々考えてしまいます。児童劇団「大きな夢」は子どもたちにミュージカル創りを通して、学校教育では学べない数多くのものを提供しています。歌って踊り演技をすることによる技術の練磨、喜んだり悩んだり我慢することや努力することでやればできるという自信を育んでいきます。

さらに大人と小さい子も一緒になって作り上げていく舞台の面白さの中で先輩を見習い、又後輩の小さい子をいたわるなど、あらゆる面での人間的成長に繋がっていきます。そして本番の舞台を終えた時の喜びと興奮は、次の舞台にも立ち向かう強い意欲を掻き立てます。中学を卒業するくらいまでは一層の向上心も伴って夢中になって打ち込んでいきます。

ところが高校に入ると、自分の能力に限界を感じ別の道があるかもしれないと劇団を去っていく子も増えてきます。一方で将来のことを考えながら、取り敢えず高校を卒業するまでは継続していこうとそのままKMに残る子や、役者の道を目指してBDPアカデミーに移籍しレベルアップを求めて精進している子もいます。

ここまでは通常の流れといってもいいのですが、特に最近高校を卒業するあたりから退団する子が続出しています。大学生になると尚更で、視野も広がり交友関係も広がってくれば様々な情報が入り乱れ、BDPという狭いところにいては世間知らずになる不安みたいなものが頭をもたげてくるのでしょう。

よその芝生は青く見える傾向は誰にもありますが、この業界のことを知らない勉強不足のために、せっかく培ってきた夢を断たれてしまっている退団者のなんと多いことでしょう。目先のことよりもしっかり将来を見据えて継続していく中で本物が見えてくることを知るべきでしよう。     



 

2020年3月12日木曜日

令和2年 3月号

劇団BDPや児童劇団「大きな夢」の最大の特色は父母会の皆さんによって支えられ共に活動を展開しているというところです。

劇団員の数が700名とすればその子ども達のご両親の数は1,400人となります。これらの方々が土台となって劇団のために子どもミュージカル普及のために力を注いでくださっています。しかも各地の子どもミュージカルは独自の運営によってしっかりと地元に根付き、年一回の定期公演は地域の他の団体が驚くほどの観客動員によって存在感を誇示し、併せて劇団独自のネットワークによって相互の連帯意識を育みながら躍進を続けています。

父母会はその中心的役割を担って活動していますが、積極的に参加する方やそうでない方々など関わり方は様々でも、子どもたちがミュージカルによって大きく変わっていくのを間近にご覧になっていて出来る範囲内で精一杯協力しようと努力していただいていることも確かです。

昼間の仕事を持ちながら家庭を切り盛りし、時間をやり繰りして参加していただいている姿には心底頭が下がり感謝の気持ちでいっぱいです。その父母会も数の上ではほとんどがお母さん主導型で、勿論お父さんたちがリードしていただいているところもありますが、お父さんの場合は仕事や経験を生かした別の形で劇団活動に貢献していただいている例もあります。

専用劇場実現プロジェクトには不動産関係や会社経営で躍進している方、一級建築士で経験豊富な方々など多才なメンバーで構成されて熱く語り合っていただいています。またIT関係で活躍している方の親身になってのご指導など多くの智慧と才能に恵まれた環境の中で劇団は今後益々進化発展すること間違いありません。




令和2年 1、2月合併号

イギリスの作家ロアルド・ダールの小説に出てくる天才少女マチルダは3歳になる前に字が読めるようになり4歳でディケンズやヘミングウエイといった英米文学の巨匠たちの作品を読みこなすまでになります。

ところがこの少女の両親ときたら娘の教育に全く関心がなく、本なんか読んでなんになるんだ、このバカ ! と何かにつけてどなり散らしているダメな両親で、夕食は必ずテレビの前にあるソファーに座ってテレビを見ながら食べるという、それが家族団欒だとうそぶいているような家庭でした。

家の中では読書ができるような環境ではなかったのでマチルダは図書館に通うことを覚え片っ端から貪るように読んでいきます。しかし客を騙しながら商売をしている父親と毎日昼間からビンゴをしに出かける母親という最悪の両親のもとで育ったマチルダ、そして彼女が小学校に上がると、そこの女校長は生徒たちに憎しみをたぎらせている手のつけようもない圧政者であったことなど、このダールの小説は抑圧者である大人・対・被抑圧者である子どもとの戦いの物語だと訳者は解説しています。

果たして子どもの教育やしつけというのは一体なんだろうと考えさせられてしまいます。素晴らしい教育者のもとで育った子どもが必ずしも立派な人格者になる訳でもなく、この物語のように子どもを全く無視し、放任状態に置いた子が読書によって磨かれ立派に成長するという皮肉な現象は、私たちの周りを見回しても納得できる例に事欠きません。

一概に方程式のように結果を求められるものでもありませんが、このマチルダに限らず子どもの頃から読書に親しむということは人間形成に必須の栄養素になり得るものなのです。



 

令和元年 12月号 

先日慶應義塾大学眼科創設100年記念講演会と祝賀パーティーに招かれましたが、その講演会でお話なさったある教授の話で強く印象に残った言葉がありました。

「①お金を残すのは三流 ②名前を残すのは二流 ③人を残すのは一流」
と格言めいたお話でしたが、①はお金を残せない私には都合のいい言葉だと納得してしまいました。しかし③の「人を残す」ということはどれだけ難しい問題であるか改めて考えてみることにしました。

最近になって中小企業など承継問題の深刻さが報道されていますが、後継者がいないために廃業にまで追い込まれている会社が後を絶たないそうです。中小企業に限らず大企業でも大組織でも医学界やスポーツ界などあらゆる分野においても人材の確保が如何に重要な鍵を握っているか「人を残す」という短い言葉には人生を左右する計り知れない奥行きがある事に気づかされました。

さて日本の「劇団」という組織に目を向けると、新劇という演劇活動が始まった頃から実力のある役者や演出家の強いリーダーシップによって一世を風靡していた大手の劇団もいくつかありましたが、代替わりになって世の中の変化と共に以前のような勢いがなくなってきたように思われてなりません。

寂しい現象ですが後を託す人材の育成が疎かになっていった結果でもあり、又社会全体がITによって大きく変化していく中で継続するだけでは取り残されていく現実もあり、これからの劇団のあり方も大きく改革していかなければならないところにきているように思われます。

幸い我が劇団は将来を託せる若者達の裾野がどんどん広がってきていますので、若い人の力で改革を強力に推し進めてくれることを期待しています。




令和元年 11月号

児童劇団「大きな夢」は情操教育ということを掲げていますが、子ども達にミュージカルを体験することでしっかり育ってほしいと願っていても、果たしてどのように育っているのか短期間で成果を見極めることはできません。子どもをしっかり育てようと思っても簡単に育つものでないことは父母会の皆さん日々の子育てで実感なさっていることではないでしょうか。

一般的な傾向として最近では学業が優先し親が学歴や就職など世間体にこだわり過ぎて子どもの人格形成に注ぐべく時間や環境が少なく、肝心の人間教育がおろそかになっているように思われてなりません。

このところ毎日のようにニュースを賑わしている詐欺や虐待、ストーカー、収賄や殺人事件など跡を絶たない犯罪はしっかりした教育がなされていない現今の社会全体の歪みによってもたらされているものです。学業も大切ですがそれ以上に人間教育、命を尊び他人を思いやる心、我慢して耐えることの強さなど幼い時から自然と馴染むような場を与え、明るく伸びのびと育む環境さえあれば間違った方向にはいかない筈です。

いわんや最近のニュースで取り上げられている小学校のいじめ担当の教師らの事件など言語道断、荒れている日本の社会がここまできてしまったのかと愕然としてしまいます。ペーパー試験に受かれば身分が保証されてしまう教育制度の欠陥がもたらしている悪瘡が蔓延しています。関西電力の執行部も同様、お粗末な記者会見など見ていると誰もが、これが一流企業の大人?と呆れるばかり。

一体「人が育つ」ということは何だろうと思いますが、自らも一層襟を正して「大きな夢」の子ども達がすくすく育つ一助になればと決意を新たにしています。